(写真:コモンズ社会起業家フォーラムの開催に欠かせない助っ人チームである法政大学経営学部佐野ゼミ生に囲まれて 2016年 文京学院大学で)
「誰一人取り残さない」
これが、SDGsが描いている人類の壮大な目標です。
ただ、「人間ができることには限界がある。SDGsが掲げている17のゴールの全てを2030年までに達成できるわけがなく、現実味のない目標だ」このような冷めた姿勢も少なくないでしょう。確かに一人の人間ができることには限界があります。しかし、たった一人でも人間がやりたいことには限界を設ける必要はありません。
手を貸してくれる人がいれば、一人ができる限界は広がります。また、発展し続けているテクノロジーを駆使すれば、その一人の限界はさらに広がります。
愛とは、未来を信じる力で今を生きること
(筆者=左=と武藤将胤さん)
7月、一般社団法人「WITH ALS」代表の武藤将胤(むとうまさたね)さんと面会しました。4年前に世間で、氷水をかぶる「アイス・バケツ・チャレンジ」でALS(筋萎縮性側索硬化症)への認知度が高まりつつある最中に、27歳の武藤さんはALSの診断を告げられていました。運動ニューロン(運動神経細胞)が侵され、手足・のど・舌、いずれ呼吸に必要な筋肉までが日々少しずつ動かなくなり、動く・食べる・話す・息を吸うという日常のごく普通の活動に限界がじわじわと迫ってくる酷な病です。
そのような想像を絶する逆境に置かれた若者の決断は、生きるということでした。自分に限界を設けることなく、人生にチャレンジし続けることに決めたのです。コミュニケーションクリエイターとして活躍され、音楽が大好きな武藤さんは、まぶたで演奏するVDJ(ビデオDJ)としても演奏活動をしています。
もちろん周囲に手を貸してくれる多くの人々、そして、テクノロジーの発展があるからこそ武藤さんのように限界をつくらない生き方にチャレンジできる時代になっているのです。人間の愛情や知恵は限界を知りません。
武藤さんから弊社コモンズ投信が10月14日(日)に開催する「第10回コモンズ社会起業家フォーラム」のスピーカーとして登壇するご快諾をいただきました。ただ、病状が進んでいる武藤さんは、年内にも呼吸困難になることが予想されています。人工呼吸器のため気管切開の手術を受けると、言葉を発することができなくなるかもしれないのです。
10月まで自分の声は持つのか。登壇しても、それが公の場で話せる最後になるのか。このような重い決断が迫っていても、前向きに生きるという意志で輝いている姿に心から感銘を受けました。10月14日にぜひとも、武藤さんの生の声を大勢の方々に聞いてほしいと願っています。
面会の後に、武藤さんの著書「KEEP MOVING 限界を作らない生き方」を拝読しましたが、グングンと引き込まれて一気に読み終えたほど素晴らしい内容です。知らず知らずに限界を設けている自分に気づきました。そして、武藤さんの妻、母、義父、友人らがページに記した思いが大切なことを教えてくれました。
愛とは、未来を信じる力で今を生きることです。
「第10回コモンズ社会起業家フォーラム」の詳細はこちらへ
https://www.commons30.jp/seminars/detail/694
微力に微力を掛け算すれば、社会を変革する力になる
(洋裁技術を身につけ洋裁店を開いた女性と鬼丸昌也さん コンゴ民主共和国カロンゲ区域、2018年8月撮影)
「我々は微力であるかもしれない。けれども、決して無力ではありません」
これは、認定NPO法人「テラ・ルネッサンス」理事・創設者である鬼丸昌也さんの名言です。鬼丸さんとのご縁もコモンズ社会起業家フォーラムでした。2012年に開催した第4回フォーラムにスピーカーとして登壇していただいた鬼丸さんは、大学生時代の2001年に初めてカンボジアを訪れました。現地で地雷被害の現状を体感し、自分に問いかけたようです。
「今、自分は何をできるのか」
でも、当時の鬼丸さんはまだ大学生。自分には力もない。お金もない。地雷に脅かされる状態で生活している目の前の人々に対して自分は何もできないではないか。
しかし、自分には「伝える」力があるかもしれないと鬼丸さんは考えました。自分が体験した現状をまず「伝える」ことから事を始めることができる。現状を伝えて日本に暮らす良心ある方々から少しずつ寄付を募れば、カンボジア社会の深刻な社会課題である地雷撤去支援活動ができると奮い立ち、同じ年に鬼丸さんはテラ・ルネッサンスを創立します。
現在の活動はアフリカのコンゴやウガンダの元子ども兵の社会復帰にも支援活動を広げています。反乱軍の大人たちが子どもたちを生まれ育った村から拉致し、暴力を振るい、麻薬づけにして子どもたちの感情や夢を奪うという本当にむごい暴虐です。平和が戻っている地域でも非人道的な限界に閉じ込められた元子ども兵である若者がトラウマを抱えたままで暮らしており、鬼丸さんのされているような支援活動がなければ社会へ復帰できないのです。
とても悲しい状況です。ただ、日本から遠い国のことです。日本で暮らす我々の生活とは直接関係ない社会的課題です。しかしながら、鬼丸さんの「伝える」力の発揮により、心が動いた日本全国の寄付者から直近では年1億1千万円が託され、テラ・ルネッサンスの支援活動の財源となっています。
私は鬼丸さんの話を6年前のコモンズ社会起業家フォーラムで拝聴するまで、「無力」や「微力」は同じような意味であると思っていました。しかし、そのときの鬼丸さんの話で、実は全く異なる言葉であることに気づかされました。「無力」はゼロです。無力を何回足し算しても、何回掛け算しても、無力だけの答えはゼロにしかなりません。
しかし、「微力」は違います。「微力」に「微力」を足すと、ちょっと増えます。もっと足すと、もっと増えます。「微力」に「微力」で掛け算すれば、もっともっと増えます。
つまり、鬼丸さんがおっしゃったことは「我々は現在では微力の存在ですが、皆さんと一緒に足し算、掛け算することによって世界を平和にする、社会を変革する勢力になる」という希望をかきたててくれる素晴らしいメッセージであると感銘を受けました。
ただ、そのとき、私はふと思いました。これは、どこかで聞いたことのあるメッセージだ。
平和なき、インクルージョンなきでは豊かさのサステナビリティーがない
(渋沢栄一[渋沢史料館所蔵])
私の高祖父である渋沢栄一が約145年前に日本初の銀行である第一国立銀行の株主募集布告で、「銀行」という当時はスタートアップのベンチャー企業に過ぎなかった存在を日本社会にアピールしました。
「銀行は大きな河のようなものだ。銀行に集まってこない金は、溝にたまっている水やポタポタ垂れている滴と変わりない。せっかく人を利し国を富ませる能力があっても、その効果はあらわれない」
一滴一滴と垂れている滴は微力な存在です。しかしながら、その微力な滴が寄り集まり、足し算・掛け算すれば、勢力ある大河になります。
渋沢栄一は「日本の資本主義の父」と称される場合がありますが、本人は資本主義という言葉を使っていませんでした。代わりに「合本主義」という言葉を発していました。「資本」という権利主義より、「合わせる」力という能動的なイメージがある言葉です。
日本の資本主義の原点である「合本主義」とは微力な存在を合わせて勢力にすること。つまり、「共感」によって寄り集まり、「共助」で互いを補い、今日よりもよい明日を「共創」することが合本主義であると私は解釈しています。
また、渋沢栄一の代表作である「論語と算盤(そろばん)」という談話集ではこのような言葉が記されています。
「その経営者一人がいかに大富豪になっても、そのために社会の多数が貧困に陥るようなことでは、その幸福は継続されない」
「正しい道理の富でなければその富は完全に永続することができない。従って、論語と算盤という懸け離れたものを一致させる事が今日のきわめて大切な務めである」
現代意義にかみ砕けば、サステナビリティー(持続可能性)にはインクルージョン(包摂性)が必要であり、「誰一人取り残さない」世の中を目指すことは正しい道理の富であるということです。
明治維新の曙(あけぼの)に渋沢栄一は、壮大な目標を描いていました。民のエンパワーメントによる豊かな国を実現させたいという社会的インパクトのある目標です。
そんな目標は現実味がないという冷めた声も少なくなかった時代だったと思います。しかし、栄一は自ら限界を設けることなく、約500の会社、600の教育、医療、社会福祉など、社会的活動の団体の設立に関与します。
明治維新を経て日本が西洋諸国に追い付いた時代になると渋沢栄一は世界との調和を呼びかけ、民間外交のため老骨にむちを打ちます。平和なき、インクルージョンなきでは豊かさのサステナビリティーがないということは、栄一が永眠した昭和初期からの悔やまれる日本史に刻み込まれています。
武藤将胤、鬼丸昌也、渋沢栄一、そして、「誰一人取り残さない」SDGsの共通点とは何か。それは「未来を信じる力」で自ら限界を設けないことでありましょう。