転職・起業……ワイナリーを夢見た僕が社会起業家になるまで/「ユナイテッドピープル」関根健次さん

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

(写真はいずれも関根健次さん提供)


ネットを通じてNGOなどに募金できる仕組みを作ったのが17年前。その頃、「社会起業家」という言葉はまだ一般的ではなかったが、社会課題をビジネスで解決する仕組みを模索。素人だった映画の配給を始め、自らプロデュースするまでになった。2012年、千葉県いすみ市から福岡へと拠点を移し、「好きな地域で暮らす」生き方を満喫している「ユナイテッドピープル」関根健次さんの歩みは、「コロナ時代」のヒントが盛りだくさんだ。

「好きな地域で暮らす」と福岡に拠点

目の前に広がる玄界灘から心地よい風が吹き、さざ波の音が聞こえる。関根さんが代表を務める「ユナイテッドピープル」は、福岡県西部の海沿いに事務所を構える。

「映画の配給に地方は不利では」。移転の際、そんな声も聞いたが、日本の「外」を意識した時、アジアの玄関口である福岡の場所は、むしろ魅力だったという。

確かに、映画界は東京中心に動いており、月に何度かは上京する必要がある。ただ、スケジュールを調整していくつかのアポをまとめ、格安の航空会社を利用すれば、いすみ市から何度か上京していたころと比べてさほど費用は変わらない。

関根さんにとっては、こうしたいくつかのハードルより、自分にとって理想的な場所で暮らせることの方が大きかった。目の前は海。そして少し足を伸ばせば山も温泉もあり、環境は抜群だ。「プライベートでも幸せを感じながら働けることが、仕事でのクリエーティビティーにもつながる。理想に近い形です」と関根さん。そんな考え方は、コロナ時代を迎え、むしろ広がっていくのでは、と感じている。「リモートワークも一般的になりつつあるいま、『好きな地域で暮らす』選択肢はやりやすいものになっているのではないでしょうか」。

映画を通じて社会課題の解決につなげる

貧困問題や環境問題などを扱った映画の配給や宣伝を通じて、多くの人の心を動かし、社会課題の解決につなげる――。これが、ユナイテッドピープルの「事業」。社会課題の解決そのものをビジネスにしているのが特徴だ。2015年に採択された国連の持続可能な開発目標(SDGs)も、企業が慈善事業として社会問題に取り組むのではなく、事業そのものを持続可能な形へと変えていくことを提唱しており、いま、企業が環境や人権といったことに配慮しながら持続可能なビジネスの形を探ることは当たり前になりつつある 

だが、関根さんが起業した2000年代初めにはまだ、こうした考え方は社会に浸透していなかった。ここまでの道のりは、決して平坦(へいたん)ではなかった。


(大学時代放浪の旅)

米国の大学へ進学、中国留学、そして就職

関根さんは地元・藤沢の高校を卒業後、米国の大学に進学。「米国の大学を卒業しても日本で就職ができない」と止める人もいたが、「決められたレールの上を進むより、未知の世界で自分を試したい」という思いが勝った。当時から、起業したいという思いもあったという。  

進学先は、1000人ほどのリベラルアーツ系の小さな大学。アジアやヨーロッパ、中東など、50~60カ国から留学生が集まっていた。おのずと世界への興味が開け、世界を旅するように。出かけたバックパックを背負い、野宿やヒッチハイクをしながら、あちこち放浪した。第三外国語として履修していた中国語をマスターするため、中国・上海に交換留学もした。

中国留学は、それまでほとんど関心がなかった歴史問題に向き合うきっかけになった。

親友になった現地の人からは、「日本軍に殺された家族がいる」という話を聞かされた。奥地へ一人旅した際は、現地の人ばかりの安い船に乗っていたら日本人であることがばれ、「日本人が何をしているんだ」「鬼っ子」と大騒ぎに。それでも話をするうちに次第に打ち解け、「中国は昔、日本にいろんなことを教えたじゃないか。今度は日本が教えてくれる番なんだよ」と語りかけてきた青年もいた。船の食堂で働くおばさんは「かわいそうだからタダにしてあげるよ」と全部おごってくれた。

「旅を通じた出会いは、苦い経験も含め、自分の人生を豊かにしてくれた」。旅に魅せられ、その延長線上に夢ができた。ルームメートだったフランス人と一緒にワインを飲みまくるうち、「いずれは起業して、ワインの輸入商社をやりたい」と思い描くように。「各地を回っておいしいワインを探し、もうけたお金でいずれワイナリーをやる」。大好きな旅とワインを仕事にするという、バラ色ならぬワイン色の人生を思い浮かべた。

大学卒業後、就職先に選んだのは関東地方で展開するスーパー。当時、激安ワインを売り出してワインブームを牽引(けんいん)しており、ワインへの熱い思いを訴えて採用された。ところが、入社してみると、待っていたのはレジ打ちや魚おろしなどの仕事。「ワインをやらせてください!」と社長に直訴したが、返ってきた答えは「肉のマーチャンダイザーになってほしい。世界中を駆け巡っていい肉を探してこい」。退社を決めた。


(新卒時代1999年)


時はITベンチャーブーム。興味本位でIT企業に転職し、今度は猛烈サラリーマンになった。初日から家に帰れず、時には1週間会社に泊まり込むような働き方を続けるうち、過労で倒れ、救急車で病院に運ばれた。

病院で点滴を打ちながら、考えた。「何のための、誰のための人生なんだろう」。

いつ、自分の命が終わってもおかしくない。「経験のため」といっている間に死んでしまったら意味がない。1日でも、1時間でも、無駄遣いしたくない。いま死んでも後悔しない生き方をしよう――。

会社を辞め、起業した。26歳の時のことだった。

では、何をやろうか。  

その時、思い出したのが、卒業旅行での出会いだ。トルコのイスタンブールから日本まで、なるべく飛行機を使わずに旅をしていた途中に訪れたイスラエル。たまたま出会った日本人の女性に、彼女が暮らすパレスチナのガザ地区に誘われた。医療ボランティアとして現地で暮らしていた看護師で、「日本の人にも難民の暮らしを少しでも知ってほしい」という思いで声をかけていたという。関根さん自身は当時、パレスチナ問題に関する知識はほとんどなく、「危ないところ」というイメージしかなかったため一度は断ったが、「いまは平和で日本人が大好きだから、だまされたと思ってきてほしい」という言葉に、訪問を決意した。

恐る恐る訪れたガザ地区は、拍子抜けするほど平穏な場所だった。アラブ音楽が流れ、おじさんたちがのんびりとだべっている。街を一人で歩いていると、「コーヒー飲んでいけ」「オレンジジュースはどうだ」と大歓待を受け、おなかがタプタプになった。子どもたちは東洋人を珍しがり、列になって後をついてきた。


(ガザ地区1999年)


だが、その子どもたちとの何げないやりとりで、ここが紛れもなく紛争地であることを突きつけられた。 

一緒にサッカーに興じた後、子どもたちに将来の夢を聞いたときのことだ。そのうちの1人が、こんなことをいった。

「爆弾の開発者になって、ユダヤ人を皆殺しにしたい。僕が国際ニュースに出るのを、楽しみに待っていてくれ」 その子は、自分のおばが、ユダヤ人のイスラエル兵士に目の前で血だらけになって殺されるところを見ていた。「何も悪いことはしていないのに」。それ以来、どうやって笑っていいかわからなくなったのだ、と語った。

「敵だと思う相手を殺したら、また君や君の家族のことを殺しに来るじゃないか」。関根さんは説得しようとしたが、その言葉は彼には届かなかった。

「ケンジのいうことは正しいと思うけど、僕はやってしまうと思う。爆弾の開発をして国際ニュースに出る日を楽しみに待っていてくれ」 子どもたちが子どもらしい夢を描けないような世界を変えられるなら。その時、漠然と抱いた思いを仕事にできないか―。

起業した2002年当時は、米国の同時多発テロの後、中東での新たな戦争へと向かおうとしていた。いきなりイラクに入って戦争を止めることはできない。でも、現地の支援ならできる。そこで考えたのが、ITのノウハウを使って、提携先のサイトで資料請求や買い物をしてためたポイントを寄付できるサイトだ。「イーココロ!」と名付け、2003年5月にスタートした。

先輩経営者からは、「そういうのはもうけてから利益を使ってやることだ」ともいわれた。肝心の現場はどうかといえば、こちらも反応は悪かった。訪ねていっても、「こういう話は時々くるんですが、続ける人が少ないんです」と厳しい反応が返ってきた。

システムには自信があり、「1年で1千万円集める」を目標にしていたのに、初年度に集まったのはたったの2万円。もう、事業計画を作ること自体をやめた。そんな状態が3年、続いた。

そんなとき、思い浮かんだのは先輩の言葉だ。「高く飛ぶときにひざを曲げるだろ、ちゃんと曲げないと、ジャンプしても飛べないんだ」。自分はまだ、ひざを曲げきっていないのかもしれない。パレスチナのあの少年たちの苦労に比べたら――。そう思いながら、とにかくあきらめずに続けた。少しずつ寄付金が集まるようになり、10年で1億2千万円、140団体に分配できるようになった。

問題に気づき、行動するためのきっかけを作りたい

サイトの運営を通じた間接的な支援をしつつ、現場にも足を運んだ。スマトラの緊急支援活動や、 ヨルダンの農業を教える団体の支援。パレスチナも再訪問したが、味わったのは絶望だった。初めて訪れた1999年当時と比べて状況が悪くなっていたからだ。貧困は拡大し、水道施設や病院、空港も破壊され、多くの命が失われている。 

戦争や紛争が起き続ける限り、再建にはものすごい額のお金がかかり、いくら支援を続けても足りない。しかも、失われた命は再建できない。戦争が起きる構造、経済や社会のシステムそのものが変わらなければならない、と痛感した。


(パレスチナ西岸区 家を壊された後)


そのためには、私たちひとりひとりの行動が大切だ。多くの人が問題に気づき、行動するためのきっかけを作りたい―。そこで関根さんが目をつけたのが、「心を変えるメディア」としての映画の存在だ。自分の場合は旅をし、現地の人たちと出会ったことが行動を変えるきっかけになったが、映画ならば誰でも楽しむことができ、間接的な疑似体験ができる。その体験を通じて心が動けば、行動を変えることができるはずだ。そんな思いで、映画の配給や宣伝だけでなく、映画を見た人たちの間でディスカッションができるよう、市民自らが上映会を企画できるような仕組みも作った。


(映画「もったいないキッチン」©︎UNITED PEOPLE)

映画「もったいないキッチン」初のプロデュース

今年8月には、初めてプロデュースを手がけた映画「もったいないキッチン」が公開される。きっかけは2017年、日本で劇場公開された「0円キッチン」。オーストリア出身ダーヴィド・グロス監督が来日した際、ヨーロッパにはない「もったいない」という概念を持つ日本で、大量の食品ロスがある状況について語り合い、「これは映画にするべきだよ」と盛り上がった。一度はクラウド・ファンディングに失敗したが、プランを練り直して制作資金を集め、全国各地を回ってロケを敢行。公開を目前にしてコロナの感染拡大という状況に直面したが、オンラインでの試写会やレンタルなどのアイデアで乗り切り、公開にこぎ着けた。

困難でも発想の転換で乗り越えていける

数々の困難を乗り越えてきた関根さん。その力は、どうやって身につけたのだろうか。

「基本的に楽天家だということもありますが、戦争という極限の状態の中で生きている人たちのことを思うと、それに比べたら、というのはありますね。自分がネガティブだと、あんな状況をひっくりかえすことなんてできないですから」。

困難の先には、思わぬプラスが生まれることもある。オンライン上映会では、映画を見ながらチャットで語り合う、といった現象が生まれた。コロナの影響で人との出会い方が変わって、フェース・トゥー・フェースでなくても「出会える」ようになり、SNSで初めて知り合って、3日後にZoomで『対面』して盛り上がって一緒に何かやろう、なんてこともできるようになった。

不利な状況をプラスに変えるには、思考方法の「コツ」もあるという。

問題に直面した時、自分自身が潰されないために関根さんが心がけているのが、「どうやったら?」という問いをかけることだ。「できない、じゃなく、どうしたら切り抜けられるか、問題解決の道筋を考える発想の癖を持つことで、解決策は見えてくるんです」。

関根さんのように社会起業家になりたい、という目標を掲げる若者も増えている。そんな人たちに、関根さんは、「そこを目標にするのではなく、まずは身近な問題に目を向けてみて。自分がどんなことに感動を覚えるのか、パッションがどこに向かうのかは、自分しか見極められない。心が喜ぶ状況に変えたい何かを見極めてみて」と助言する。 

「ビジネスって『ビジーネス』。つまりは何で自分を忙しくするか、ということなんですよね。見つけたならばしがみついてやっていくこと。いろんなチャレンジングな場面は出てくるが、発想の転換で乗り越えていける。人生の可能性は無限で豊かです」。

<WRITER>仲村和代 

映画『もったいないキッチン』 
8月8日(土)、シネスイッチ銀座、アップリンク吉祥寺ほか全国順次ロードショー
オフィシャルサイトは、こちら

この記事が気に入ったら拡散おねがいします