写真・飯塚悟
コンビニやスーパーでの会計時、レジ袋は断っても、私は割り箸を断れない。理由は「ご飯は割り箸で食べる方が美味」と個人的に思うからだ。初めて自分が使うという、衛生面での安心感。割る時の、パキ、という、食事が始まる合図のような音。見た目の真新しさ。舌や唇に触れる、乾いた木の感触、香り。とはいえ、無料なので文句は言えないが、コンビニの割り箸はどこか物足りない。もっと「割り箸らしい割り箸」で食事がしたい。そもそも割り箸は「エコではない」のだろうか。(文化くらし報道部・寺下真理加記者)
8月4日、「箸の日」の朝に、「わりばしの発祥の地」と称する自治体、奈良県下市町を訪ねた。
町にある吉野杉箸神社で、規格外となり出荷されなかった割り箸を焚(た)き上げ、山や森林、材木の神に感謝する箸祭りが行われていた。宮司さんが興味深いことを話していた。古来、朝廷で、神事で、用いられてきた箸。なのになぜか箸にまつわる慣用句は「箸にも棒にもかからない」など、あまり良い意味で使われないものも多い。庶民に浸透した証しかも知れないが、寂しくもある、と。

食事の道具としての箸の歴史は古代中国に始まり、日本でも古事記に登場する。小野妹子ら遣隋使が中国で知った食事作法を聖徳太子が取り入れたという説もある。平安時代には、庶民にも広まっていた。
割り箸の流行、普及は江戸時代とされる。粋で衛生的なもてなしのツールとして、庶民の食文化を彩った。喜田川守貞の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には文政期、鰻飯(うなぎめし)に「必ず引裂箸(ひきさきばし)を添ふる也(なり)」と記された。引裂箸とは、割り箸のことだ。その少し前に書かれた十返舎一九『青楼松之裡(せいろうまつのうち)』では、割り箸を見た「田舎者」が「箸が一本で食はれるものか」と言う。
ちなみに下市町の「発祥」の由来は14世紀、後醍醐天皇が吉野に朝廷を開いた南北朝時代にさかのぼる。下市の里人が後醍醐天皇に杉箸を献上したところ、木目や香りが喜ばれ、愛用された、との伝承があるという。その後の普及の過程についても、1862年、杉原宗庵という巡礼僧が吉野地方の樽丸割りを見て、杉の余材を利用して箸を作ることを提案し、下市町で割り箸の工法を伝授した、と伝わる。樽丸とは、樽を作るために杉の原木を板状に切りそろえて束ねたものだ。

下市町をはじめとする吉野地方は、現在も割り箸の生産が盛んだ。下市町を出て、車で吉野町を目指した。木々が密集して植わっている気がする。吉野川が美しい。吉野製箸(せいはし)工業協同組合に着くと、事務局の奥谷純子さん(68)が語り始めた。
「そうなんです。吉野の山は杉と檜(ひのき)の混合林で、密植、つまり密な状態で植えている。木は切磋琢磨(せっさたくま)して上へ上へまっすぐ伸びて、節が出来にくく、美しい木目になるんです」
角材と端材と割り箸を手に、更に解説してくれた。木の中心部は家の柱などに使われ、切り落とされた半月状の端材が、割り箸の原料となる。「余った木がもったいなくて、思いついたのが割り箸。割り箸は、木の無駄遣いじゃないんです」
吉野の割り箸こそがサステイナブル
杉箸の正面の直線の模様は柾目(まさめ)、側面の曲線の模様は板目。特に赤杉の箸は油分が多く汚れをはじくため、洗えば少しの間、再利用も可能だ。檜は杉より堅くて折れにくく、割れ目に溝をつけて割りやすくした元禄箸などに加工される。

吉野町では元々、和紙づくりが盛んだったが、下市町の影響で割り箸製造も広まり、昭和期、外食産業の成長とともに活気づいた。ところが平成に入ると、中国をはじめとする安価な輸入割り箸が台頭。1989年ごろに約100社だった町内の割り箸業者は、現在は約30社にまで減った。担い手も高齢化しつつある。
コロナ禍は、外食産業が主要な取引先である割り箸職人にとっても打撃だった。そんな中、「SDGs=持続可能な開発目標」が話題に。奥谷さんは「吉野では昔から当たり前の話! 吉野の割り箸こそがサステイナブル」と膝(ひざ)を打ったという。山を数百年の単位で守り育て、建材から割り箸まで、木を余すところなく役立てる。吉野町に働きかけ、学校教育や製箸業、林業の振興にSDGsを結びつける活動を進めている。
シンプルだからこそ、3代も続いてきた
午後、小林直樹さん(48)の工場「吉野製箸」を訪ねた。軽トラックの荷台に檜の元禄箸の束が載せられ、半円状の断面の長い原木が人の背丈以上に積み上げてある。原木は円盤状のカッターで轟音(ごうおん)とともに箸の長さに切りそろえられ、更に板状に加工されて箸の形へと整えられていく。上部を斜めにそぐ「天削(てんそげ)」で出る削りカスは三角柱。先を細く整える際のカスは細長く、バネのように丸まっている。それらの削りカスは、箸に熱風をあてて乾燥させる工程で窯にくべられ、燃料となる。
「ゴミが出ないんですよ」と小林さん。箸の表面をなめらかにする工程は、大きな束にして機械の上で揺り動かすように転がし、箸同士がこすれ合うことで、トゲや毛羽立ちを取る。工程前の手触りは、何となく指先に引っかかるような感触だったが、工程後は「ふわ、さら」だ。
原料から商品が出来上がる過程が、手に取るようにわかる。
「僕は3代目なんですけど、この仕事ってシンプルだからこそ、3代も続いてきたんじゃないかな」

杉箸を手がける竹内善博さん(66)の工場も訪ねた。水に浸しておいた杉箸に、切れ目を入れる作業を見せてもらった。水を吸わせて柔らかくしないと、欠けてしまうという。1分間に70本、機械の上を箸が高速で流れていく。
「一本一本が安いから、とにかくたくさん作らないと。それでも、もっと安い外国産にお客が流れてしまう。だから逆の発想で、若い人たちとこういうのを作ったんだ」
見せてもらったのは、地元の高校生とコラボし、桜や市松模様をレーザーで焼き付けた「文様割箸」。おしゃれな懐石弁当や和風スイーツが似合いそうだ。値が張ることもあって、使うのが惜しくなる。
「間引いて植える」途絶えれば良い木育たず
模様のないまっさらな普通の杉箸は、20膳で400円余。インターネット通販で一般にも販売している。柾目も板目も美しく、香りもいい。料理店でしか出会えないと思っていた割り箸が、個人でも買えるとは。質の高い商品、顔の見える生産者、豊富な原材料が、我々のすぐ身近なところに存在していた。
竹内さんと夕暮れ、吉野の山並みを眺めた。山の持ち主たちの子どもの世代には都会で別の仕事をしている人もいて、放置され、荒れ始める山が増えているという。「間引いて植える」という大昔からの手入れが途絶えれば、質の良い木も育たず、雨が降れば崖崩れにもつながる。
「これを作るのが、俺の仕事」と竹内さん。大切そうに手のひらに載せた割り箸は尊かった。吉野には、かっこいい「もったいない精神」が息づいていた。

(余話)
下市町にも「吉野杉箸商工業協同組合」がある。吉野杉箸神社は、箸の神・材木の神をまつり、日本ではじめて建立された箸をご神体とする神社とされる。箸祭りでは、杦(すぎ)本龍昭町長らマスク姿の人々が炎天下、みな汗をぬぐいながら箸の束を炎に投げ込み、祈りを捧げていた。古くから商業が盛んで、日本最初の商業手形「下市札」の発祥の地であることもPRしている。隣町の大淀町にある「道の駅 吉野路大淀iセンター」では、吉野杉の物産や地場産品を販売している。
吉野町の観光・物産は吉野オンラインSHOPに詳しい。サイト内の「国栖(くず)の里観光協会」のコーナーで、吉野製箸工業協同組合の職人たちが手がけた、普段使いの箸、もてなし用の高級箸、小林さんと竹内さんのアイデア商品「箸トング 3個セット」990円(税込み)などが購入できる。竹内さんの「文様割箸」は木々屋で販売中。竹内製箸所、吉野町、奈良県立吉野高校、電通中部支社による産官学協働プロジェクトで、2015年度グッドデザイン賞を受賞した。市松文様→必勝祈願、亀甲文様→健康長寿、七宝文様→商売繁盛、麻葉文様→子孫繁栄、矢羽根文様→良縁祈願、桜散し文様→未来永劫の意味が込められている。
林野庁の「森林・林業白書」(2012年度)によれば、国内の割り箸消費量は近年、250億膳前後で推移していたが、07年以降は減少傾向となり、10年には194億膳(国民1人当たり年間約150膳)。10年に国内で消費された割り箸のうち、97%が中国産を主とする輸入品で、国産間伐材を原料とする割り箸の価格は輸入割り箸の約3倍だという。
(読む)
箸および割り箸の歴史については、一色八郎『箸の文化史』(1990年、御茶の水書房)や、寺島孝一『アスファルトの下の江戸』(2005年、吉川弘文館)が詳しい。田中淳夫『割り箸はもったいない?』(07年、ちくま新書)は、マイ箸運動の人々による割り箸批判への反論のほか、コンビニや外食産業の割り箸の輸入、流通事情などについても深掘りしている。この本によれば、1709年に下市町の商家の出納簿に「わりばし 壱わ」「すぎはし 五十膳」などの記載があったという。
※be on Saturday2021年9月4日号より転載